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ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公) : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公) : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)[こう]
初代サフォーク公・初代サフォーク侯・第4代サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール(William de la Pole, 1st Duke of Suffolk, 1st Marquess of Suffolk, 4th Earl of Suffolk, 1396年10月16日 - 1450年5月2日)は、百年戦争期のイングランドの主要な司令官の一人であり、後に王室侍従長として国王ヘンリー6世に仕えた貴族である。第2代サフォーク伯マイケル・ドゥ・ラ・ポールとキャサリン・ドゥ・スタフォード〔キャサリン・ドゥ・スタフォード - スタフォード伯ヒュー・スタフォードの娘〕の次男として、サフォークのコットン(Cotton)で生まれた。
== 生涯 ==
若い頃から百年戦争の主戦場であるフランスに従軍しており、1415年にで重傷を負い、この時に父も戦死した。同年のアジャンクールの戦いで兄の第3代サフォーク伯マイケル・ドゥ・ラ・ポールも戦死したため、ウィリアムは爵位を継いで第4代サフォーク伯になった。
1428年オルレアン包囲戦の際に総司令官ソールズベリー伯トマス・モンタキュートが戦死すると、サフォーク伯は後任として総司令官に昇進、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットウィリアム・グラスデールらと共に包囲網の指揮を取った。この包囲網は翌1429年5月にジャンヌ・ダルクらの活躍で壊滅しグラスデールは戦死、サフォーク伯はジャルジョー(Jargeau)まで後退するが、攻勢に転じたフランス軍は逆に6月11日からジャルジョー攻城戦を展開し、翌12日に城は陥落、サフォーク伯はフランス軍の捕虜になってしまう。シュルーズベリー伯も18日パテーの戦いで敗れて捕虜となりイングランド軍は撤退、1431年に多額の身代金を払って解放されるまでの2年以上もの間、サフォーク伯はフランス王シャルル7世に捕らえられていた〔松村、P588。〕〔尾野、P51、ペルヌー、P117、P119。〕。
保釈されて帰還した彼は国王の侍従になり、当時イングランド国政の中心にいてローマ教皇の信任も厚かったヘンリー・ボーフォート枢機卿と連携するようになる。この時期のサフォーク伯の最大の功績は1444年にヘンリー6世の妃としてマーガレット・オブ・アンジューを迎えるための交渉をまとめ上げた事であり、同年にこの功績で彼はサフォーク侯に昇進する。サフォーク侯自身は1430年11月11日〔この時点でウィリアムはまだフランスで囚われの身であり、日付はあくまで結婚の認可が得られた日付である。〕にアリス・チョーサー〔アリス・チョーサー(1404年 - 1475年) - トマス・チョーサー(庶民院議長)の娘であり、詩人のジェフリー・チョーサーの孫娘である。彼女にとってはこれが3回目の結婚である。また、母フィリッパがボーフォート枢機卿の母キャサリン・スウィンフォードの妹であった関係でボーフォート家とも血縁関係があった。尾野、P51。〕と結婚、これが縁で1445年に生前義父が務めていたウォリングフォード城〔ウォリングフォード城(Wallingford Castle)、現オックスフォードシャー、ウォリングフォード〕の城主に就任、アリスがボーフォート枢機卿の母方の従妹でもあったことからボーフォート派の領袖となっていった。
1447年グロスター公ハンフリーとボーフォート枢機卿が亡くなると、残ったサフォーク侯がヘンリー6世政権の陰の実力者になった。さっそく彼は自分自身を王室侍従長や海軍司令長官等の要職に任命、同年にペンブルック伯に列せられた上、翌1448年にはサフォーク公に列せられた。人事でも権勢拡大を目論み、1445年にボーフォート枢機卿の甥に当たるサマセット公エドムンド・ボーフォートノルマンディー総督に起用、反対派のヨーク公リチャードを1447年にアイルランド総督として遠ざけ、他の大貴族の発言権も縮小させた。事実上政権を掌握したサフォーク公はヘンリー6世とマーガレット夫妻の信任の下で権勢を振るった。
だが、こうした専制体制は抗戦派は元より大貴族、議会や国王側近など多くの反感を買い、1444年の結婚でフランスとの和睦を図った際にメーヌをフランスへ渡す条件が1447年に暴露、非難された。ノルマンディーの入植者からも和睦と引き換えに大陸領を犠牲にするサフォーク公の姿勢に不満が相次ぎ、抗戦派のヨーク公に対する期待が高まっていった〔松村、P588。〕〔森、P215 - P216、尾野、P49 - P53、城戸、P208 - P210。〕。
更に、続く3年間の北フランス戦線は完敗状態であり、1448年2月にル・マンをフランス軍に奪われ、サフォーク公は何とか休戦交渉を妥結すべく努力したが、1449年3月にフージェールが大陸のイングランド軍の独走で落とされるとフランスが報復しノルマンディー征服作戦を展開、ノルマンディー方面の重要拠点ルーアンもフランス軍の猛攻を前に11月4日に陥落してしまった。この大敗戦によるサフォーク公の権威失墜は免れず、1450年1月28日に逮捕されロンドン塔に収監される。後に彼は5年間追放の刑に処されたが、追放先に向かうフランスへの船旅の最中に待ち伏せによって暗殺された。この殺害がイングランド内の反対派によるものなのか、それともフランス軍によるものなのか、事実は謎のままである〔松村、P588。〕〔森、P216 - P219、尾野、P53 - P54、城戸、P204。〕。
遺体はサフォーク州のウィンフィールドに返還され、ウィンフィールド大学の教会内に埋葬された。サフォーク公の死後、サマセット公が代わってヘンリー6世の側近となったが、ジャック・ケードの反乱やアイルランドから帰還したヨーク公の政府弾劾、ヘンリー6世の精神障害など政局は不安定で大陸の戦況も覆せず、百年戦争はイングランドの敗戦となり、側近政治の不満もあって薔薇戦争が勃発した。一人息子ジョンは後に第2代サフォーク公になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)」の詳細全文を読む




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